顕彰会会報寄稿
 菅茶山顕彰会会報22号記事
 「菅茶山と朝鮮通信使」

県立歴史博物館主任学芸員西村直城の講演要旨

 正徳元年(一七一一)九月、六代将軍家宣の将軍職襲封を賀すため来朝した朝鮮通信使上官八人が鞆・福善寺対潮楼に宿泊、酒を酌み交わしながら歓談した。八人が口を揃えて、「朝鮮でも耳にしている評判どおり、日本の東地区でこの地の景色が一番美麗である」と評した。
それを従事官の李邦彦が「日東第一景勝」の六字に書した。また三人の正使がそれぞれ詩を詠んだ。
 茶山は「筆のすさび」で「朝鮮より礼儀なるはなしと書中に見えたれど、今時の朝鮮人威儀なきこと甚だし」と朝鮮人観を述べながらも、これら通信使が残した文化遺産については高く評価していた。
文化九年(一八一二)、茶山は当時鞆に在住していた親類の菅良平(長獻)を介して、鞆の豪商大坂屋主人三島新助に経費を負担してもらい、先ず「日東景勝第一」などの木彫額を制作、以後、朝鮮通信使が残した文化遺産と併せて名勝「鞆の浦」を広く世間に発信しようとした。
 こうした茶山の遺志を継いで沼隈郡藤江村庄屋山路機谷は、嘉永六年(一八五三)三月、対潮楼を舞台に「未開牡丹」という詩題で詩筵を張った。その参集者は二日間で百余人、一八九首の詩が詠まれたという。
 今日なお続く鞆の津の賑わいの仕掛け人は「茶山を以て魁と為すべし」とも言える。
(十一月二十日 於 鞆歴史民俗資料館 講演)